”金型人生”のはじまり

                    
                       
1977年 17歳で(有)○○プレス 金型部入社
  セーパーとボール盤、成形研磨とバンドソー。このような乏しい設備の町工場で、手作りでの金型製作を学び始める。切り刃の加工は、パンチが成形研磨、ダイは、やすり仕上げという加工方法だった。この会社で、プレス部の班長に抜擢され、昼間の時間はプレス加工を実務し、プレス加工を学びながら、パートの従業員のご婦人たちの仕事の世話をし、、夜は金型製作を実務する事で、ひとかどの金型技術を学ぶ。ここでは主に、弱電関係、端子、ソケット、コンセント金具などの小物部品、材質は、鉄、パーマロイ
 ステンレス、真鍮、銅、りん青銅、ようはく、などの製品を手掛けながら、単発型、順送型を製作。
  21歳の時、結婚を機に子育てにかかる費用の大きさを思い知らされると共に、手作り町工場の行き詰まりを感じ、23歳で退社。
 
1982年(株)○○鉄工 埼玉工場入社
  職安から面接に行った時、工場にあった大型のマシニングセンターや、ワイヤーカットの姿に、鳥肌物の激しいカルチャーショックを覚える!
  入社当初は汎用の機械での加工。数ヵ月後に、NC言語や機械の取り説なる物のテキストを渡され、自宅にて猛勉強。その後、マシニングセンターやワイヤーカットを実務し、
 習得する。従業員の数が少ない会社だったので、分業体制は取れず、背中にワイヤーカットやマシニングを稼動させながら、ドラフターで設計を実務、プレストライや展開出し、客先に納入しながらトライ調整までを、一貫して実務。
  ここでは前勤務会社と一転して、大型の自動車関連の金型や電気部品もシャーシーなど比較的大きな単発型と、倣いフライスを駆使した成形パネル物の単発、順送型を設計、
製図、製作する。
 バブル崩壊を機に、過剰に強引だった設備投資のツケで、経営状況が悪化、重ねて社長の弟だった工場長が、退社。
 その頃、たまたま仕事を出してくれていた会社の社長に目をつけられ、誘われる。

1994年○○鉄工(株)に入社
  仕事を出してくれていたので、さぞかし立派な会社だと思って入社したが、内容は
悲惨で、社内自力人材での加工技術と設備不足で、ほとんどの仕事を、外注に頼っている会社だった。
                    つづく