”七転八倒”

 そこで、その時点で、とにかく必要最低限だったマシニングセンターを中古で入れてもらい、80%外注構成だった仕事を90%社内構成にして、設計製図、加工製作を全て行い、設備を少しずつ増やし、バラックだった工場の空き地に、門型のマシニングの仮工場を建てさせて、大型トラックやバスのシャーシーの金型も手掛ける。
 1996年、3次元導入の必要性を強く感じ、メーカーからデモを呼び、実用性に優れていると感じたソフトを、購入してもらい、自宅にて取り説を読み学び、独学でモデリングや加工データ作成を習得、3次元パネルの単発型や順送型を設計、製図、製作する。
 3次元に方向転換してから、受注が大幅に伸び、実績も上がり、会社も増資が出来、
半分木造、半分鉄骨の仮だった工場を、1999年、全面建て替え、事務所、工場が新たに
生まれ変わった。 設備もそれに比例して増え、400トンのメカプレス、ワイヤーカットも5台、マシニングも7台 NC放電、3次元測定器など、高精度、短納期型の工場となった。個人的には、取締役部長という役に付かせてもらい、会社共々、益々の成長を確信して、努力精進していた。
だが、しかし、社長の考えがどこで変わってしまったのか、私たちに何の前振りもなく、吸収合併された得意先のリストラの対象になった外注担当者をひっぱり、いきなり会社のNO.2にしたり、設計部のトップに据えたりした。
得意先の外注担当者は、人が作った物にけちをつけることは出来ても、自分でゼロから生み出す事は出来ず、また、出来たとしても、とんでもない設計で、私自身が携われないところで、不良が続出し、作り直し、設計のやり直しという問題が、会社に多大なる損害を与えた。結局、私を含む、それまでいた従業員の給与や賞与をカットする事になり、私の会社を思って、社長に直訴した内容に関しても、「いったん入社させた以上は・・・!」っという事で、受け入れてもらえず、だんだん、私の会社の対する情熱が冷めてしまい、このままだと、自分自身が腐りきってしまうと思い、2005年3月、思い切って退職した。
                          つづく